親として子どもが成長する瞬間に立ち会うことは嬉しい出来事の一つです。
家の外に出れば、そういった貴重な機会に何度か出会うことができます。
そういった素敵な経験ができるのが公園です!
今回は息子と過ごした公園での思い出の中で、子供の成長に必要な要素を見つけた出来事をお伝えいたします。
社長から聞いたスポーツ選手との対談の話
私は昔、幼児教育の塾で働いていたことがあるのですが、まずはその勤めていた会社の代表から聞いた話をご紹介します。
ある時、社長ととある世界的なボクシング選手の方とで対談をする機会があったそうです。
対談の中でそのボクサーの方が、「先日、息子をね、公園に連れて行ったんですけれどね…」と始まるお話。
「公園のジャングルジムで遊ばせていたんですけれどね、そこで人間て面白いなと思ったことがありましてね。ジャングルジムでわが子が遊ぶ様子を何気なく見ていたのですが、息子はジャングルジムの途中まで登ると急に足が動かなくなるんですよ。高いのが怖くて、先へ進むことができなくなったんですね。これって不思議だと思いませんか?だって、登るという動作自体は高かろうと低かろうと変わらないわけでしょ。それなのに「怖い」という気持ちが人間の動作に制限をかけるんですよ」
子どもと一緒に公園に行けば、よくある光景ですが、その時あった違和感に一歩立ち止まり、考察する。常に相手と対峙するボクサーだからこその感覚なのでしょうか。
社長は「やっぱり一流のスポーツ選手は観察眼が違うんだな」とおっしゃっていましたが、私も「気がついているようで、拾えていない日々のあるあるを言い表しているな」となんだか感心しました。
「いや、待てよ」とここで私は一歩立ち止まってみることにしました。
では、その恐怖で止まったその子どもの足を再び動かし、最後まで登りきらせるにはどうしたら良いのだろうか?
わが子と登る縄梯子(なわばしご)での経験
その話を聞いた数日後、私は長男(当時2歳、もうすぐ3歳になるくらいの頃)と公園に行ってみることにしました。
その公園にはジャングルジムはありませんでしたが、2メートルほどの縄梯子(なわばしご)がありました。
公園の縄梯子
最後まで登りきると少し長めのすべり台を滑り降りてくることができます。
「これって登れる?」と長男に聞くと「登れるよ!」本人はやる気まんまんです!
最初は意気揚々と縄梯子を登る長男でしたが、半分くらい登ったところでと案の定、足が動かなくなりました。十秒ほど息子を観察していたのですが、それ以上登れる気配はありません。
息子「こわい…🥺」、そりゃそうだ。
ということでいったん息子を降ろし「今度はパパも手伝うからね」と伝えてもう一度チャレンジ!
今度は、まず息子が自力で登れるところまで登り、そこから上は私が息子のお尻を押してサポートしました。頂上までたどり着くと「登れたー!!」と嬉しそうな長男。
登りきれた喜びがあったのでしょう「もう一回、やる!」とまた縄梯子を登り始める長男。
同じように長男のお尻を押してサポートする私。
それが3回ほど続いた後、今度は息子へのサポート方法を変えてみました。
「押す」というよりは「触る」という感覚で息子をサポートします。
つまり筋力的な支援はほとんどない状態です。
それでも長男は先ほどと同じように縄梯子の頂上まで登りきることができました。
それにも慣れると次は長男に触れること自体をなくし、
長男が落ちても大丈夫なようにパパは後ろに立ち、触りはしませんが手を伸ばし、
「落ちても受け止めるよ」という姿勢だけを見せるだけのサポートにしてみました。
離れたところから眺めると、パパが子どもに念でも送っているかのように見えたかもしれません。
それでも長男は見事に縄梯子を登りきることができました。
長男は全く物理的な支援がない状態でも一人で縄梯子を登りきることができるようになっていたのです。
次は、パパは少し距離を取り、長男の様子を見守ることにしました。
すると息子は梯子の途中で足が止まってしまいます。
まだ不安な気持ちが残ると登り切ることができないようです。
息子との体験で「ポイントはやはり心理面だ」ということがここではっきりとしました。
長男は最初から縄梯子を登り切れるだけの筋力は持っていたのです。
では、どのように恐怖や不安などの心理的負担を取り除いてあげればよいのでしょうか?
子供の成長を促すためには必要なこととは
先ほど「まるでパパが子どもに念を送っているように見える」と書きましたが、
本当に親の念というものがあるのだなということに私は気が付きました。
やはりあのボクサーの方がおっしゃっていた通り、長男は一人で縄梯子を登りきる筋力はあったのです。邪魔をしているのは気持ちの面。これは人間にとって安全装置のようなものなのでしょうね。
その安全装置を少しずつ解除していくことで本来の力を発揮することができるというわけです。
そして、その安全装置を解除するきっかけの一つに「親の念」はなり得るのです。
「もし失敗してもパパが助けてくれる」と信じられたからこそ本来の力を出すことができたというわけです、たぶん。
自分の中にあった親の支えを感じた経験
こういった出来事を経験したのち、私は自分の中にあった昔の記憶を思い出しました。
私が中学生だった頃、通っていた中学校では毎年冬にマラソン大会を行っていました。
私自身は持久走に自信があるというわけでもなく、速さは学年で真ん中くらいだったと思います。
そのマラソン大会のラスト1㎞ほどの地点、一番苦しいタイミング、沿道を見ると私の母が応援で見に来てくれていました。私からの視点では母がいる、何かを言っている、くらいしかわかりません。
一目母を見た私は「母が来ているなら、少しは良いところを見せなくてはいけないな」という気持ちになり、息苦しい中もう一段足の回転を速めることができたことを覚えています。
親としてわが子にできること
わが子が困難に立ち向かっているときに親としてできること…
・縄梯子を登っているときならば、近くに立っていてあげること。
・ピアノの発表会があるのならば、客席からわが子の演奏を固唾を飲んで見守ること。
・受験に向かう朝ならば、「頑張ってね」と言ってあげること。
子どものことを見ていてあげること、大丈夫だよと信じてあげること、ときには声援をおくってあげること。行動としては小さなことかもしれませんが、そんなことこそが親としての念です。
私たちは結局いつも互いに見えない何かを交換しながら支え、支えられ生きていくのでしょうね。
しかし、縄梯子を登れたという成功体験は何物でもない長男本人の頑張りがあったからこそです。
そこを偉そうに「親のおかげだ」というほど私は無粋ではありません。その喜びは本人のものです。
親の念に本人が気が付くのは「その子が親になったとき」くらいがちょうど良いと思っています。